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kangekinocafe

Author:kangekinocafe
観劇の記録と紹介です。

えびす組劇場見聞録メンバーです。
しばらくblogはお休みしていましたが、【演劇、観劇のカフェ】blogからこちらに引っ越して来ました。
どうぞよろしく。

観劇のカフェ
出会った作品について語ります。関連書籍や音楽も、できる限りご紹介します。
松竹座・七月大歌舞伎 夜の部(7/5-29)
せっかくの夏のお休みです。
しかし芝居好きは、あくまで劇場のあるところへ旅します。
松嶋屋贔屓の友人に、珍しい顔合わせだからと誘われて、松竹座で歌舞伎見物となりました。
その顔触れは、松嶋屋と音羽屋がほぼ勢揃いしたような華やかなものでした。
大阪に着いたその日は夜の部へ。
夜の部の演目は、
一谷嫩軍記 熊谷陣屋(くまがいじんや)』
黒手組曲輪達引(くろてぐみくるわのたてひき)浄瑠璃「忍岡恋曲者」』
『上 羽衣(はごろも)/下 団子売(だんごうり)』
歌舞伎座や国立劇場の横長の舞台に見慣れていたので、松竹座はどの席からも舞台が近いと感じました。
そして花道すぐ横の席といったら、役者の隣に座っているような夢見心地でした。

熊谷陣屋』では、
出家する熊谷直実(仁左衛門)が幕外の芝居で花道に座り込み、顔を隠して肩を震わせ泣く場面です。
その様を見て、周囲の観客は(ほとんどが女性)、皆、ハンカチで目頭を覆っていました。
うつむいていた仁左衛門が顔を上げると、その頬には一筋も二筋も涙の跡が。
美しい光景を見せていただきました。

お次は『黒手組曲輪達引』。
不細工な番頭権九郎(菊五郎)に手を引かれて駆け落ちをする新造白玉(菊之助)。
この作品は、「助六」のパロディであると、イヤホンガイドの解説で聞きました。
廓を抜け出すのを手伝ってもらっているのだから、仕方なく白玉は権九郎と一緒にいるわけです。
内心は嫌々であるところをちらりと見せる白玉は、艶っぽくてまた美しい。
菊之助の、よく研究された芸と、その魅力に見取れてしまいました。
その幕の最後は、いつもなにやら面白いネタがあるようで、ここは大阪、道頓堀のすぐ近くの松竹座です。
手の込んだご当地ネタを、大御所の役者によって見せてもらい、歌舞伎は庶民を楽しませて発達したことを実感しました。

最後は舞踏の『羽衣 / 団子売
『羽衣』は、天女(菊之助)の羽衣を手に入れた青年が、天女が舞ってくれたら羽衣を返すと約束するものです。
天女の舞は溜め息が出るほどに美しいものでした。
『団子売』
片岡愛之助と孝高太郎による杵造とお臼という名前の夫婦の団子売り。
明るく軽妙な踊りを楽しみました。

そして翌日は昼の部の松竹座へ。
春調娘七種(はるのしらべむすめななくさ)』
片岡十二集の内 木村長門守(きむらながとのかみ)血判取』
伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』を楽しみました。

木村長門守 血判取』では我當の扮する長門守に涙して、そして『伽羅先代萩』は、悪役の仁木弾正と弾正妹八汐の二役を仁左衛門が演じるという、憎々しい役柄がまた面白かったです。

デパ゚地下で塩分控えめの折り詰めのお弁当を携えて劇場へ向うのが、すっかり病み付きになりそうです。
終演後は大阪、京都の観光へ。
次回は是非、京都の南座へも観光を兼ねていってみたいと思います。
7月の、夏の思い出となりました。

※この公演は29日に終了しましたが、詳細は歌舞伎公式サイトで。

(大阪 松竹座にて)

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『ラヴ・レターズ』(7/20-30)
日本でも1990年から上演されている男女二人だけのリーディング作品です。
公演期間中、異なる世代、そして毎日違う顔合わせで上演されているこの作品、どんなものかずっと気になっていました。
パルコ劇場で上演されていましたが、今回は初めてルテアトル銀座で行われました。

登場するのは、アメリカ人の小学校低学年くらいの男の子と女の子。
メリッサという女の子のお母さんが、アンディという男の子に出した娘の誕生パーティの出席の返事をアンディが書いたことから、二人の間で手紙のやり取りが始まりました。
そこからずっとずーっと、50年あまりの間。

互いを幼なじみとして、親友として、そして特別な存在として意識しながら、全寮生の学校にいる彼らの距離は手紙で埋められていきます。
携帯電話もインターネットも、まだ一般家庭に無い時代には、話す内容のプライバシーを保てるのは手紙だったわけです。

時にはシラノ・ド・ベルジュラックの書いた手紙のように、メリッサには久しぶりに会った目の前のアンディと手紙のアンディが別人のように思えてしまうようで、せっかく会っても進展しない二人の関係。
それは思春期がもたらすいたずらなのでしょうか。
あまのじゃくな少年と少女、彼ら二人の心の距離が切なく感じられます。
くっつきそうでバラバラな二人。
ボタンをかけ違えたような生き方。

さて、同世代の組み合わせによる俳優は、若い世代の顔合わせでは二人が成長していく様のようでもあり、そうでない場合は過去を振り返るようでもあるという、どんなイメージも可能なのだと思いました。
そのせいでしょうか。
事前に読んだ本のイメージと、本日のメリッサとアンディの印象は、自分の抱くそれとは少々違っているように感じられました。

本日のメリッサ神田沙也加アンディ中川晃教

読み手自身の背景も含めて、役を生きる彼らの言葉に耳を澄ませます。
読む世代によって、違った生き方が見えてくるかもしれません。
読み手の顔が見えるだけに、リーディングの舞台は奥が深く、面白いです。

※公演詳細は公式サイトで。

(ル テアトル銀座にて)

☆作・A.R.ガーニー、訳・青井陽治「ラヴ・レターズ」構想社
 リーディングは、この本に即して行われています。
『ピーターパン』(7/19-31)
毎年夏の恒例の公演です。
芝居好きにとっては、出演者によって演出が微妙に変わる様を楽しむことができます。
2005年2007年の観劇の様子を掲載しています)

今年で4年目となるのは、松本祐子の演出です。
松本の演出となってから、冒頭の楽しみのために何度か足を運びました。
潤色も手掛ける松本祐子の演出は、原作の持ち味を生かした、大人の共感も得られる作品であると思います。

ピーターパンについては、扮する高畑充希のキリッとしたあどけない表情が、子供たちを魅了しています。
歌から舞台に立った彼女ですから、ピーターパンの言葉とも言える歌声は、しっかりしていて頼もしいものです。
フック船長とダーリング氏の二役を演じる鶴見辰吾も、最近は蜷川演出作品への出演を経て、作り過ぎない大胆さで、子供だけでなく大人も魅了する立ち振る舞いで見せてくれます。
今回はウェンディに馬渕英俚可を迎えて、ピーターパン、そして迷子の子供たちとの関係、そして大人になってしまった彼女の寂しさが、観ている者の感情を投影した存在となりました。
ダンスの上手なタイガーリリーと仲間たち、そしてどこか憎めない海賊たち。

原作を読んでみるとわかりますが、面白さも忠実に舞台の上で描かれています。

東京での公演は31日まで。

その後、大阪、盛岡、名古屋、高知で上演されます。

原作・ジェームズ・M・バリ、演出・潤色・訳詞・松本祐子、翻訳・秋島百合子、
音楽・宮川彬良、振付・玉野和紀、美術・堀尾幸男、照明・勝柴次朗、衣裳・前田文子、

※公演詳細は、公式サイトで。(クリックすると音が出ます)

※オフィシャルブログはこちら


(東京国際フォーラム ホールCにて)

☆作・J.M.バリ、訳・厨川圭子「ピーター・パン」岩波少年文庫
 

音楽劇『夜と星と風の物語』~「星の王子さま」より~(7/26-8/3)
カテゴリをミュージカルに入れてみました。

作・別役実、演出・藤原新平
長年のお馴染みの顔合わせですが、飽くことのない彼らの作品づくりに感嘆することとなります。

この作品のベースとなるのは、「星の王子さま」の物語。
飛行士と、星の王子さま、バラの花など、個性的な登場人物はそのままに、物語の展開はこれぞ別役作品というものでした。

そしてこれは音楽劇です。
微かに歌声を運ぶ音楽。
そこからイメージするものは、果てしなく広がりのある宇宙。
どこか遠い記憶のようでもあり、その音楽が聴く者の心を捉えて放しません。

目の前には、電柱のかわりに墜落した飛行機が存在しています。
そこで途方に暮れる飛行士(曽世海司)。
星の王子さま(毬谷友子)のテントの上に、飛行機は墜落しました。

這い上がってきた星の王子さまが語ると、砂漠の地表に生き生きと様々な人や物が飛び出します。
そこにいないものがそこ出てくるのは、‘思い’を‘出す’から。
愛をもって思い出すと目に見えるという、言葉の重み。
バラの花(池田有希子)は、愛の象徴のように美しく気高く存在しています。
そして飛行士が思い出すのは、彼を取り巻く過去と現在、そして未来。
ここに存在するのは、まぎれもなく生と死の物語。

時間の流れさえ変えてしまうような音楽は、稲森響によるものです。
聴く者の想いをすぅっと持ち上げて、最後には解放してしてしまう、どこか寂しげで懐かしい旋律で魅了します。

その物語と音楽が解け合う作品に、別役ワールドの懐の大きさを感じました。

歌と芝居が全て揃った俳優陣の顔ぶれが魅力です。


作・別役 実、演出・藤原新平、音楽・稲本 響、美術・朝倉 摂、照明・沢田祐二、衣裳・原 まさみ
(演奏)
チェロ・江口心一、ギター・平岡 雄一郎、クラリネット・稲本 渡、ピアノ・築田佳奈、ヒューマンビートボックス・MaL

※公演詳細は、シアター1010のサイトで。

(シアター1010にて)

ミュージカル『南十字星』200回記念公演
劇団四季の「昭和の歴史3部作」、『李香蘭』『異国の丘』に続き、最後は作品は『南十字星』です。
南方のインドネシアに赴いた青年兵士の短い生涯の物語。
この7月17日に、上演回数200回を迎えました。
この作品も初演を観て以来であまり覚えていませんが、終戦後、南方の地で裁かれる彼の言葉とその姿は忘れられませんでした。

インドネシアの民族の音楽と舞踏が、外国に支配され続けてきた民の自由を願う象徴のように、魅力的に披露されています。
そこで踊る人々は皆、生き生きと描かれています。
しかし、そこにいる日本人は皆、居場所が定まらないように見受けられます。
それは、掲げる理想の言葉とその行動に疑念を抱いてしまったからなのでしょうか。

ミュージカルという簡潔な手法ではありますが、史実の中で生きる若者たちの想いの一言一言、その葛藤の声が聞こえてくるような、そんな気がしました、

3作品を通して思うのは、登場人物は、日本はもちろんのこと、異国の地で出会った人々とその生活に魅力を感じています。
互いを引き離したのは、戦争以外にはありません。
舞台の上の若者たちの想いは純粋です。
観ている私たちも、そうありたいと思います。

初演を観た時は、こんな風に作品を見つめることはできませんでした。
上演200回の舞台の挨拶を聞きながら、回を重ね、観る者が作品を育てたということもあるかもしれないという想いを抱きました。

企画・構成・演出・浅利慶太、
台本・劇団四季文芸部、浅利慶太、田中浩一、藤川和彦、前田貞一郎、湯川裕光、
作詞・浅利慶太、作曲・三木たかし、振付・加藤敬二、
美術・土屋茂昭、照明・沢田祐二、衣裳・小林巨和、ガムラン音楽製作・和田啓

※作品については劇団四季のサイトで。

8月3日まで。

(四季劇場 秋にて)
『七月大歌舞伎』夜の部(7/7-31)
今月の夜の部は、泉鏡花2作品の上演です。

夜叉ケ池』と『高野聖』。

夜叉ケ池』は、2006年の再演です。
時を経て百合を演じる市川春猿に、美しさだけではなく艶やかさが加わったように見えました。
その柔和な面持ちが本人の意志とは別に周囲の男たちの好奇の的となり、悲しい運命を辿ってしまう。世間を「俗」とするならば、相反する凜とした気高さが際立って見えました。
百合を心から守ろうとする萩原晃(市川段治郎)の汚れの無い清らかさも、作品を象徴的に物語っていました。

高野聖
若い修行僧の宗朝(市川海老蔵)が、飛騨から信州へ抜ける山中で出会った美しい年上の女性(坂東玉三郎)。
彼女の謎に包まれた生活が、一層妖しい魅力となって、迷い込んだ旅人たちを翻弄します。

宗朝の心を写したような映像を用いた幕開きが、歌舞伎の舞台では新鮮に感じられました。
そして玉三郎が、鏡花のファンタジーの世界に息を吹き込んだような妖しい美しさで、その世界を現実のものとして見せてくれました。
その女が養っている病持ちの青年(尾上右近)の歌う木曽節の美しいこと。
短編ですが、見所、聴き所満載です。

美しさとは、人としての魅力とは、そして煩悩とは。
それらの意味するものを考えずにいられない作品です。

※公演詳細は、歌舞伎の公式サイトで。

(歌舞伎座にて)
『七月大歌舞伎』昼の部(7/7-31)
歌舞伎座の昼の部では、『義経千本桜』より「鳥居前」「吉野山」「河連法眼館の場」が上演されています。

そして国立劇場でも、「河連法眼館の場」を中村歌昇の源九郎狐が音羽屋型で上演中です。
歌舞伎座で源九郎狐を演じるのは、市川海老蔵

鳥居前
源義経(市川段治郎)が都落ちするにあたり、一緒に行きたいと願う静御前(市川春猿)に初音の鼓を与え、さらに鼓の紐で梅の木に縛り付けて義経一行は去ってしまいます。
一人残された静御前は、鎌倉方の追っ手に捕らえられようとするところを、どこから現れたのか佐藤忠信(海老蔵)によって助けられました。
それを陰で見ていた義経らは、静御前には自分の形見として初音の鼓を、そして忠信には万が一の場合には自分の影武者になるようにと自分の鎧を与え、静御前を忠信に任せて別れます。

吉野桜
静御前と忠信の道中の物語。
この幕では、静御前を坂東玉三郎が演じます。
演じるというよりも、静御前が道中背負っていた鼓を降ろしての優美な舞となります。

忠信の姿が見えない時に鼓を叩くと、必ず姿を現します。
そして忠信の、初音の鼓と楽しそうに踊る姿には、思わず笑みがこぼれます。
このあたりから、海老蔵の表情豊かなその姿が、観る者を楽しませていることを実感しました。
丁寧な所作が、玉三郎との舞に映えています。

河連法眼館の場
そして、いよいよ鼓の秘密が明かされるというところ。
河連法眼の館で、義経は忠信と会い、静御前のことを尋ねます。
しかし、当の忠信は郷里にいたので知らないと述べ、怒りを露にする義経。
そこへ、静御前と忠信が来たという知らせが入ります。
自分に成り済ました者を捕らえようとする忠信。
静御前と一緒だったのは、実は・・・。

というクライマックスの一幕です。
ここでは、忠信を名乗って静御前に同行した理由が明かされます。
忠信、実は源九郎狐。
最後に義経に恩返しをして去って行く、それは澤瀉屋型。
海老蔵が宙乗りで披露し、体いっぱいに嬉しさを表わして、賑やかに幕となりました。

※公演詳細は、歌舞伎公式ウェブサイトで。

(歌舞伎座にて)
7月歌舞伎鑑賞教室『義経千本桜』(7/3-24)
先月と今月は、歌舞伎鑑賞教室として歌舞伎が上演されています。
19時の開演は「社会人のための歌舞伎鑑賞教室」だけで、この7月は11日と18日になります。

演目は、『義経千本桜』の一幕、河連法眼館の場(かわつらほうげんやかたのば)。
この演目は、今月の歌舞伎座昼の部でも上演されています。
国立劇場で中村歌昇が初役で演じる源九郎狐は、「音羽屋型」。
一方、歌舞伎座で市川海老蔵が演じるのは、市川猿之助の指導による「澤瀉屋型(おもだかやがた)」で、それぞれの代表的な型を楽しむことができます。

さて、作品に入る前の「歌舞伎のみかた」では、歌舞伎を観るための手引きが歌舞伎役者の澤村宗之助を案内人として行われています。
舞台の構造やセリの意味、板を叩いて音を出すツケうちの効果、そして本日の作品の重要な小道具であるについての解説がありました。
特に興味深かったのは花道の‘揚幕’についてです。
揚幕が開く時には、「シャリン」という軽やかな音がします。
客席の後方にあるわけですから、この音は、花道から役者が出ることを観客に合図する役割があるということです。

この歌舞伎の一般常識が、これから上演される河連法眼館の場では、舞台の効果として意味を持つのですから、江戸時代の作り手の観客を楽しませるのに余念がなかったのことに改めて感心しました。

実際の上演の方では、佐藤忠信実は源九郎狐の役の魂が宿っているような歌昇の役作りに、継承されてきた型が織り成す人物像が見えるようでした。

※公演詳細は、国立劇場のサイトで。

(国立劇場 大劇場にて)

『まほろば』(7/14-21)
シリーズ同時代(新進作家と異世代の演出家のコラボレーションシリーズ)第3弾、シリーズ最後の作品です。

田舎のある民家の居間が舞台です。
今日は祭りの日。
本家として、御輿を担いでいる男衆をもてなすための準備をしようというところ。
そこへ東京から急に帰省した長女のミドリ(秋山菜津子)が起きて来て、そして見たこともない女の子が家にいるのを不思議に思います。
本家の長女として受ける母親の期待と、どうすることもできない現実のことで言い争っていると、次女の娘も前触れもなく東京から帰ってきました。
世代の異なる女性が6人、世間体を心配する母親の心境を交えて、女性としての様々なタイムリミットが浮き彫りになっていました。

作は、蓬莱竜太
三十路を過ぎたばかりの男性の作家が、女性でも公言しない(できない?)ことにメスを入れて、しかもあっけらかんと描きました。
もしかすると、あっけらかんと描いたのは、演出の方だったのでしょうか?
11歳の女の子から、お母さん、おばあちゃんまで、家族の、そして女の本音を勢いよくポンポンと言わせています。

台風の目のような長女のミドリ。
東京で仕事をして、寂しさを紛らわすように恋愛をする女性の典型的な姿なのではないかと、それはそれで背筋の凍るような想いで観ていました。
東京に憧れて、一人暮らしをするミドリの二十歳の姪にしてもです。

それにしても、デリケートな問題に立ち向かったものです。
それで見事に、家族の、女同志の絆ができあがり、みんなの居場所がそこにあり、ひいては個々が存在する意味(=生きるということ)が、しっかりと描かれているのです。

追記です。
‘まほろば’には、「すばらしい場所」という意味があるようです。
家があって、触れ合える人がいて、それでそこがまほろばになるのだと感慨深く思いました。

演出は、栗山民也。
内面を深く丁寧に描く演出は、今やストレートプレイからミュージカルまで、ジャンルを問いません。
客席は、栗山演出作品の出演者たちの豪華な顔触れに彩られていました。

作・蓬莱竜太、演出・栗山民也、美術・松井るみ、照明・服部基、衣裳・宇野善子

※公演の詳細は、新国立劇場のサイトで。

(新国立劇場 小劇場にて)

※この作品を含むシリーズ作品の台本を、ロビーで販売しています。
『道元の冒険』(7/7-28)
作・井上ひさしの初期の戯曲です。
演出は、蜷川幸雄

時は寛元元年(1243年)、日本曹洞宗の開祖・道元(阿部寛)の、開山7周年を祝う弟子たちによる余興「道元禅師半生紀」が上演されようとしています。
一方、近ごろ道元が眠って見る夢は、その時代のその姿ではない自分のような人物について。
あちらの人物はこちらを夢見て、互いに何のことかわからない、それが悩みの種でもありました。

それはさておき、弟子たちによって始められた彼の半生。
幼くして自身の求める思想を追い、ついには異国の地で修行を続ける道元の姿は、まさに冒険そのものでした。
その上演が終わる頃、私たちが目にするのは・・・。

海を渡った道元が、師と仰ぐ僧から戒められるその言葉に、聞いていて心が洗われるように思いました。
万人にわかるように説く歯に衣着せぬ言葉は、時を越え、今の時代のこの世界に響き渡ります。
まるで今の世の中を嘆いて書かれたような、道元が突き当たる壁を見極めるその目で見る世間というものが薄っぺらに感じられました。
志を大きく持ち、その頭で考える少年道元。
少年時代の道元には、栗山千明が扮します。透明で真っすぐな少年の心と見極める澄んだ瞳が、象徴的に輝いていました。
弟子たちが、一人何役も何役も瞬時に入れ替わることを前提にしたその役どころ、見応えがあります。

井上ひさしの豪快でいて、痛快な戯曲、それに辛辣な演出が私たちを戒めています。
二つの世界。結局は、夢であって欲しいと願う世界が現実「かもしれない」という現実を、私たちは客観的に見られるでしょうか。

作・井上ひさし、演出・蜷川幸雄、音楽・伊藤ヨタロウ、
美術・中越司、照明・山口暁、音響・井上正弘、衣裳・小峰リリー、振付・前田清美、
演出助手・桐山知也・羽原結

※公演詳細は、Bunkamuraのサイトで。

(シアターコクーンにて)