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kangekinocafe

Author:kangekinocafe
観劇の記録と紹介です。

えびす組劇場見聞録メンバーです。
しばらくblogはお休みしていましたが、【演劇、観劇のカフェ】blogからこちらに引っ越して来ました。
どうぞよろしく。

観劇のカフェ
出会った作品について語ります。関連書籍や音楽も、できる限りご紹介します。
『さらば、わが愛 覇王別姫』(3/9-31)
カンヌ映画祭でパルムドール賞を受賞したレスリー・チャン主演の映画で有名だと聞きました。
同名の作品を蜷川幸雄が演出、そして京劇の女形の俳優・蝶衣(テイエイ)を東山紀之が務めます。

1924年、北京。
指を6本持った9歳の少年は、遊郭では大きくなった男の子は育てられないからと、母からその指を1本切り落とされて科班(プログラムによると19世紀から20世紀初めのころにかけてあった伝統演劇俳優養成所)へ預けられ、そのまま母とは生き別れました。
血のにじむような訓練の末、女形として育てられた小豆子は、チョン・テイエイという名で数々の名優が演じてきた虞姫の役を演じるに至ります。
舞台の外では戦争が起こり、そして1960年代には文化大革命に突入し、権力の嵐が吹く時代へと向かっています。
演じ踊ること、そのこと自体が俳優である彼らの運命を左右し、舞台の上までが戦場となっていくのです。

京劇の女形という存在、そしてその様式美に、日本の歌舞伎の世界がダブります。
そして役者として完璧であることを求めるテイエイの信念に、歌舞伎の女形、坂東玉三郎を思い浮かべていました。
ただしテイエイは舞台の外でも舞台衣装で生活するほど、女として、演じる役の虞姫として、彼の人生を生きていました。
そして兄と慕う覇王を演じるトアン・シャオロウ(遠藤憲一)が愛する女性(木村佳乃)の存在が、シャオロウとテイエイとの関係に変化をもたらします。
この作品の舞台の上で、男性の存在を「芸術」の象徴とするならば、女性は「俗」あるいは「現実」に映ります。
その対比に、テイエイの生きる世界が浮き彫りになりました。
時代は急速に変化し、芸術のあり方まで世に問われるようになります。
舞台の外では現実の姿で生きることを強要され、さらに我が子のように面倒をみてきたシャオスー(中村友也)がライバルとしてテイエイを古いものと非難し、蹴落としにかかった時、テイエイは生きる場所を失いました。
その戸惑いと潔さが、舞台の外でただ傍観する存在である観客の心に突き刺さります。

この作品には普遍的なテーマを感じます。
国を動かす道具として芸術が利用され、規制され、そしてその流れが変わって、犠牲となるのは誰なのか。保身のために人々は何をするのか。
人々の心を動かす世界であるだけに、その存在と継続は大変ナイーブなものだと思いました。

さて、東山紀之について。
初めて観た舞台の上の彼は、その踊りと心情を音楽にのせて語る声、瞳、すべてが役そのものとして感じさせる魅力の大きさに、ただ引き込まれるばかりでした。
この役は彼のものとして記憶に留どめておきたい想いを抱き、劇場を後にしました。

原作・李碧華(リー・ピクワー)、脚本・岸田理生、演出・蜷川幸雄、音楽・宮川彬良、美術・中越司、照明・勝芝次朗、音響・井上正弘、衣裳・前田文子、ヘアメイク・鎌田直樹、振付・広崎うらん

観劇後に映画を観ました。
岸田理生の脚本が映画の全ての要素を含んでいるのに驚きました。
そして、京劇を音楽劇として観客の想像力を駆り立てた宮川彬良の音楽に魅了されました。
シンプルでいて映画の印象そのままの舞台美術も見事です。

※公演詳細はシアターコクーンの公式サイトで。

(シアターコクーンにて)

この後、梅田芸術劇場シアタードラマシティで上演されます。(4/5-13)

☆原作・李碧華、翻訳・田中 昌太郎「さらば、わが愛」―覇王別姫 ハヤカワ文庫

☆映画『さらば、わが愛 覇王別姫』DVD
 

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祝祭音楽劇『トゥーランドット』(3/27-4/27)
赤坂サカスに新しく建てられた赤坂ACTシアターは、とにかく舞台の天井がとても高いのに驚きました。
そして2階のA席という後方の席から舞台を観る角度は、歌舞伎座の3階席のようでした。と、言うことは、前の席のお客さんが前傾姿勢をとったら見えにくくなってしまいます。
しかし舞台の天井が高いということは、上の方から観ても舞台が何かに遮られることなく見渡せるという素晴らしいメリットがありました。

そんな舞台の造りに、演出家はよく応えてくれました。
演出は宮本亜門
そして脚本は、鈴木勝秀
個人的には、鈴木勝秀は演出よりも脚本の構成の方が好みです。
原作の主題にロマンの要素が織り込まれているように思います。
そして、作曲は久石譲
トゥーランドットとカラフの毅然とした心情を、心に残るメロディで届けてくれました。

さて、オペラでよく上演される「トゥーランドット」は、プッチーニの壮大な音楽による女帝トゥーランドットの威厳が印象的な作品です。
一国を治める独裁的な権力を持つのですから、当然です。
三つの問いに正解できなければ命を絶たれるというのに、美しい彼女の前には求婚者が次々に現われます。
そのトゥーランドットには、華麗な台湾の歌姫、アーメイが扮します。
東方の島国からきたカラフ(岸谷五郎)という青年が、その問いに挑みます。
三つの問いに答えたものの、ワン将軍(中村獅童)が異国の者を受け入れるはずもなく、処刑を言い渡されてしまいます。
果たしてカラフは、このままその運命を受け入れるのでしょうか・・・?

民の頂点に立つトゥーランドットを、20段以上もある階段の上に据え、人々が見上げ、そして挑むカラフが駆け上がる構図は、それだけでこの作品を物語る巧みなものでした。
そして短時間に物語を完結させるのに配された役者陣が、的確にその務めを果たしているのを感じました。
繰り返し効果的に使われる旋律が、トゥーランドットと、彼女を理解し大きく包み込むカラフの心情を印象づけます。
アーメイと岸谷五郎が、互いの心をよく歌い上げていました。

余分なものを省き、そして彼らの衣裳が舞台装置以上の効果を舞台の上であげています。
スタッフの想像力を集結したような見事な舞台です。

大変豪華なプログラム(2,500円)を手に取ってみると、舞台衣装のハギレがついています。一冊ごとに異なるもののようです。
舞台と登場人物を身近に感じさせる演出が、ここにもありました。

演出・振付・宮本亜門、音楽・久石譲、衣裳・ワダエミ、脚本・鈴木勝秀、作詞・森雪之丞、美術・松井るみ、照明・中川隆一

※公演詳細は公式サイトで。

(赤坂ACTシアターにて)

写真は、桜満開の赤坂サカスにある初日のACTシアター。
『きみがいた時間ぼくの行く時間』(2/28-4/7)
キャラメルボックスの時代物(2006年6月に観た「俺たちは志士じゃない」とか)はあまり抵抗がないのですが、現代を舞台にした作品のダンスと洒落た音楽で始まるオープニングには、観客として照れてしまいます。

この作品も、やはりオープニングはダンス。
登場人物の語りで進められる展開は少女マンガのように懐かしく、一つひとつのエピソードがすぐに観客を物語の中に引き込みました。

その物語は、妻を事故で失った青年が、自らが開発に携わっている物質を過去に送り出す機械、クロノス・スパイラルに乗って、その事故を未然に防ごうと時を越えて行くのです。
まだ彼らが生まれる前の39年前にしか行けないというマシンに乗って・・・。

タイムマシンの開発も、上川隆也の役どころが最初からそれを肯定せずにいることに安堵し、(キャラメルボックス史上初?の)休憩をはさんで二幕目はがらりと変わり39年前から始まるその構成が功を奏したと思います。
現代と過去、二つの世界で生活する青年のそのエピソードのかいつまみ方が、この劇団の持つテンポに合っているようです。
作家の構成力に感心しつつ、登場人物が自分の置かれた状況に理解を示し始めるのと同時に、観客も作品に入り込んでいきました。

この不思議な理解は、39年前というもう一つの物語がそこに存在していること、そして現代で起きた事柄がキーワードとなって、過去の時の流れとともにそれが見えてくる興味が、観客を捉えているようです。
そして照れ臭いけれど、純粋に「愛」をテーマとした見返りを求めない潔さに心を打たれたような気がしました。

さて、冷静になって周囲を見回すと、観客の(年齢)層が厚いことに気が付きました。
なかでも登場人物に共感してのすすり泣きは、若い世代から聴こえてきます。
ヒーロー、ヒロインに自己を投影できる純粋さが、この舞台にはあるようです。

脚本・演出・成井豊、隈部雅則、美術・伊藤保恵、照明・黒尾芳昭、音響・早川毅、振付・川崎悦子

※公演の詳細はキャラメルボックスのサイトで。

(サンシャイン劇場にて)

☆作・梶尾真治「クロノス・ジョウンターの伝説∞インフィニティ」ソノラマノベルス
 この舞台の原作。
 「きみがいた時間ぼくの行く時間」他、以下に紹介する舞台化された作品の原作も収録。
 


☆作・成井豊「クロノス」論創社
 前述の「クロノス・ジョウンターの伝説」第1話を舞台化したのが、この『クロノス』。
 「さよならノーチラス号」も収録。
  

☆作・成井豊 /隈部雅則 「あした あなた あいたい」論創社
 前述の「クロノス・ジョウンターの伝説」第2話を舞台化したのが、この『あした あなた あいたい』。
 同じく舞台化された「ミス・ダンデライオン」も収録。
 

『ベガーズ・オペラ』(3/5-30)
2006年1月に上演された同作品の再演です。(初演の様子はこちら
2月に大阪での公演を終えて、東京にやってきました。
2年ぶりに観るベガー(乞食)たちが、余裕を持って歌い、演じているのがよくわかります。
観客を巻き込む演出に、初演時は役者がとまどう姿に違和感を覚えたものでした。
しかし、今やベガーが演じるオペラとして、客席に親しみを持って語りかける彼らの姿勢が理解できます。
休憩時間には、縦横無尽に劇場内を練り歩くベガーたち。
彼らが手にしているのは、それまでの演技に対しての観客からの気持ち(お菓子など食べ物がほとんど)です。
観客にこんなにも素直に受け入れられている演出を観るのは、楽しいものです。
そんな賛辞の中、いつの間にか次の幕が始まっていました。

この再演では、高嶋政宏のピーチャム役最後の日を劇場の客席から(彼とともに乞食のジョン・ウェットンも姿を消しました)、そして橋本さとしが乞食のトムとピーチャムを務めるのを、ステージサイド・シートから観劇しました。
ステージサイド・シートは客席から眺めると恥ずかしいものだと思いましたが、いざ場内の照明が落ちてしまうと、その席にいる者にとっては客席の存在など気にならないものでした。
舞台のセットと俳優に囲まれながら、まるで稽古を見学に来ているような感覚です。

一番の楽しみは、本番中の舞台裏を見られることでしょうか。
もしかすると演出によって見せてもらっているのかもしれません。
この作品は、ベガーたちが舞台衣裳をつけてオペラの上演をするというものです。
自分の出番では役の衣裳をつけていたベガーたちも、出番がない時は普段の乞食の扮装で柱の影から舞台をうかがっています。
乞食のトムは、ピーチャムとしての出番がない時は律儀にトムの衣裳で柱の陰でこのオペラの台本の筋を追い、そしてピーチャムとして衣裳をつけて登場し、またトムに戻り柱の陰へ・・・。
上演中の筋を追うトムの姿は舞台上の席からしか見えないのではないかと思うのですが、いかがなものでしょう。

四方八方どの角度に対しても役者は演技をして、この作品は観客のために作られていることを感じさせてくれます。
一夜限りの乞食のオペラ。
ブレヒト作「三文オペラ」の登場人物のようなしたたかさはなく、ここではベガーたちは明るく陽気に舞台を楽しんでいます。
そして観客も。

演出・脚色・ジョン・ケアード、原作・ジョン・ゲイ、音楽・イローナ・セカッチ、翻訳・吉田美枝、訳詞・松田直行、美術・島川とおる、照明・中川隆一、衣裳・半田悦子、振付・広崎うらん

※公演詳細は東宝の公式サイトで。

(日生劇場にて)

☆「シアターガイド 2008年 04月号」この舞台の特集が掲載されています。
 

『ワイルド・ビューティ』(3/12-23)
~オスカー・ワイルド、或いは幸せの王子~
オスカー・ワイルド。
後に裁判にかけられた、そのスキャンダラスな部分の方が有名であるかもしれない19世紀の作家。
子供の頃に聴いて誰もが心にその美しさを刻み込んだ物語「幸福の王子」の作者。
そしてタイトルに神秘的な魅力を感じた小説「ドリアン・グレイの肖像」、オペラとなった戯曲「サロメ」など、彼の作品は有名であり、また作品の真意の探求が読み手の想像力をかき立てているように思います。

作家オスカー・ワイルドの人生を振り返るような作品です。
そのきっかけを作るのは、オーブリー・ビアズリーの一つ違いの姉メイベル・ビアズリー(池田有希子)。
2年前に他界したオーブリーは、オスカーの戯曲『サロメ』の英語版の挿絵で世に出ました。
メイベルがオスカー(宮川浩)と再会した時、彼は既に46才。若い頃の派手さは影を潜め、日々をただ静かにやり過ごすだけでした。
メイベルがオスカーに語りかけ、そして彼の記憶がアイルランドにいた少年時代へと及びます。

浦井健治が扮する少年時代のオスカー。明るい笑顔に、地位と名声を望む複雑な胸の内。
彼の瞳には、野心とは裏腹の繊細と不安が宿っているようでした。それが歪んだ周囲との関係を生じて行く様子に、観ていて心が痛みます。

弟の死との関連を探るかのように、常にメイベルがオスカーに問いかけていく中で、オスカーの作品を通じて彼の生きざまが巧みに展開されています。
そして美しさの象徴のように浦井がオスカーに関わる何役もを瞬時にこなすその演出には、目を見張るものがありました。

オスカーの転機とも言える場面が歌とダンスによって綴られていくのは、海外の劇場で目にするような洒落た感覚がありました。
脚本・作詞・演出は荻田浩一
オリジナルのミュージカルの新作とは言え、既に洗練された舞台です。
もっとオスカー・ワイルドを、彼の作品を、そしてビアズリー姉弟を知ってこの作品を観てみたい。
そういう深さも感じられます。

脚本・作詞・演出・荻田浩一、音楽・斉藤恒芳、振付・港ゆりか、照明・柏倉淳一、衣裳・千佳、美術・古口幹夫

※公演詳細は、博品館の公式サイトで。

(博品館劇場にて)

☆著者・S・ワイントラウブ、訳・高儀進「ビアズリー伝」中公文庫
 この舞台を観るにあたって読んだのが「ビアズリー伝」でした。
 メイベル・ビアズリーとはどういう人物なのか、オスカーとの関わりなどを知りたかったからです。
 オーブリー・ビアズリーが25才の短い生涯を終えたのは、南仏のマントン。
 そこはジャン・コクトーが自ら築いた美術館のある、芸術に寛容な美しい街です。

『サロメ』(2/3,6,9,11)
2月に雪の降る中、新国立劇場のオペラパレスで観た作品です。

R.シュトラウス作曲の『サロメ』。
原作はオスカー・ワイルドの戯曲です。
写真にあるように、手にした人の頭をただただ見つめている絵は、戯曲「サロメ」に掲載されたオーブリー・ビアズリーの挿絵です。
このオペラ『サロメ』は、まさにそれがクライマックスの非情なストーリーでした。

紀元三十年頃のエルサレム、ヘロデ王の宮殿が舞台。
母親の再婚相手であるヘロデ王に気に入られているサロメが、庭の古井戸に囚われている預言者ヨハナーンに関心を持ちます。
彼を連れ出させ、そこでサロメは自分にキスすることを迫りますが、ヨハナーンはそれを拒むだけでなく蔑みの言葉を投げかけました。
その態度に腹を立てたサロメは、「絶対にその唇に口づけしてみせる」と異常なでの執着心を抱きました。
そしてヘロデ王の前で<七つのベールの踊り>を披露したサロメは、王からなんでも願いをかなえてやるという褒美を言い渡され、彼女はすかさずヨハナーンの首を要求するのでした。
躊躇しながらも王はその願いを聞き入れ、そしてついにサロメにヨハナーンの首が差し出されたその時・・・彼女は嬉しそうにその唇にキスしました。
その姿を見た王は危機感を持ち、サロメを処刑することに決めたのです。
(音楽のタイトル等の表記は公演チラシより)

毅然とした態度で臨むヨハナーン(ジョン・ヴェーグナー)、そして一心不乱に妖艶に歌い踊るサロメ(ナターリア・ウシャコワ)の<七つのベールの踊り>。
中央に設えられたヨハナーンが幽閉されている大きな古井戸、テントの揺れるカーテンの向こうにある王の寝室とのコントラストが、ヨハナーンとサロメ、この二人の人物を象徴しているようでした。

全1幕。休憩なしで一気に上演されるので、威厳に満ちたヘロデ王がサロメに脅威を感じるまでのスピーディーな展開が、この作品の醍醐味だと思います。

一言では言い尽くせない感情がうごめいているのを感じましたが、それは作者オスカー・ワイルドと挿絵のビアズリーとの後世に伝え聞く因果関係にも言えそうです。

さて、オスカー・ワイルドにちなんで言うと、ワイルドと、ビアズリーの姉のメイベル・ビアズリーも登場する『ワイルド・ビューティー』(3/12-23)というミュージカル作品が、銀座の博品館劇場で上演されています。

作曲・R.シュトラウス、
指揮・トーマス・レスナー、演出・アウグスト・エファーディング、美術・衣裳・ヨルク・ツィンマーマン、再演演出・三浦安浩、舞台監督・大澤裕

(新国立劇場 オペラパレスにて)

※公演詳細は新国立劇場のサイトで。

『アイーダ』(3/10,16,20,23,26,29)
アイーダ」という作品は、宝塚で、そして劇団四季の公演で観たことはありましたが、本家本元のオペラ公演は今回初めて観ました。

その作品を初めて観るなら、新国立のオペラパレスで

プログラムのわかり易さ、確かな演奏、期待を裏切らない演出と歌手に、自分自身の選ぶ基準をそう決めて、『サロメ』(2008.2月上演・後日所感を掲載します)に引き続いて観に行きました。
上演時間2時間ほどの『サロメ』と違い、変わる場面も6場もある大作のため、18時半の開演でも終演予定は22時半。
しかも初日の本日は、月曜日です。
覚悟がいります。

と、そんな懸念は吹き飛ぶような華やかな舞台に目を奪われました。
そして登場人物に関しては、古代エジプトのファラオの娘・アムネリス(マリアンナ・タラソワ)の気高く美しい姿、奴隷女となったアイーダ(ノルマ・ファンティーニ)の情感溢れる歌声が心に染み渡ります。
エジプト軍のラダメス将軍(マルコ・ベルティ)が力強く歌う、その深く艶やかな歌声に客席は沸き上がりました。

さらには、2幕のラダメス将軍の凱旋を祝う場面では、華麗なバレエ(東京シティバレエ団)、騒ぎ踊る子供たち、これでもかというほどの大勢の人々、そして本物の馬も駆け抜けて、目の覚めるような場面にヴェルディの美しい旋律が響き渡ります。

その幕ごとに変わるリアリティのあるセットは見事なもので、「虚」の中で時折見せる「実」にはハッとさせられます。
ナイル河畔で戯れる水しぶきであったり、駆け抜ける馬であったり。

アムネリスはラダメスに想いを寄せていました。そしてファラオも彼を婿にするつもりでいました。
しかしラダメスは、捕虜として捕らえた国王の娘・アイーダと相思相愛となり、アムネリスの、ひいてはファラオの怒りを買ったのです。
最後の幕、4幕では、国を裏切った罰として生きたまま墓に入れられるラダメスとアイーダのいる地下と、地上で悲しみにくれるアムネリス、彼らを同時に見せる壮大な演出がまた凄いものでした。
プログラムでは‘スペクタクル’と称する豪華絢爛な舞台をものともせず、耳に届く実なる歌声は、聴衆を最後まで引き付けていました。

作曲・G.ヴェルディ
指揮・リッカルド・フリッツァ、演出・美術・衣裳・フランコ・ゼッフィレッリ、再演演出・粟國 淳、照明・奥畑康夫、振付・石井清子、舞台監督・大仁田雅彦、芸術監督・若杉弘

(新国立劇場 オペラパレスにて)

※公演詳細は、新国立劇場のサイトで。

※写真は、1階ロビーに展示してある「アイーダ」の舞台装置模型。
 あまり良く写っていませんが、奥行きの深い舞台の構造がよくわかります。
スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』(3/5-25)
スーパー歌舞伎と称される『ヤマトタケル』は、初演から22年もの間繰り返し上演されている人気の演目です。
私にとっては初めての観劇でしたが、その人気のヒミツがわかったような気がしました。

ケレンがあって、品がある。

この一言に尽きると思います。が、その見せ方については一言では言い尽くせません。
歌舞伎の要素を踏まえて、華やかに見せますが、決して作品の本質を逸脱しないその表現は、華麗です。
猿之助一門の役者たちが、真剣に役に取り組み、また、中国の京劇のメンバーも加わり、殺陣など大勢の役者が一丸となって盛り上げているその意気込みが舞台から伝わるようでした。

さて、カーテンコールでは鳴り止まない拍手の中、Wキャストでヤマトタケルを演じる市川右近市川段治郎が舞台の上に連れてきたのは、市川猿之助、続いて作者の梅原猛でした。
場内からは大きな歓声があがりました。猿之助の元気な姿に、感無量です。

この新橋演舞場を皮切りに、博多、大阪、名古屋と4カ月もの間、公演が行われます。
彼らの真摯に取り組む姿勢から思うことですが、最初に観た作品の鮮やかさは、最後まで色あせることはないでしょう。
スーパー歌舞伎が古典と肩を並べた、と私は思います。
これからも繰り返し上演され、受け継がれていくことを信じています。

そんな想いを抱いたまま、夜の部の歌舞伎座へと向かいました。

作・梅原猛、監修・奈河彰輔、脚本・演出・市川猿之助、装置・朝倉摂、金井勇一郎、舞台技術・金井俊一郎、照明・吉井澄雄、大平智己、衣裳デザイン・毛利臣男

※写真は、劇場内ロビー(1階と2階)に展示されている猿之助の描いた原画です。

(新橋演舞場にて)

※公演詳細は、歌舞伎公式ウェブサイトで。

☆歌舞伎名作撰「ヤマトタケル」DVD 平成7年の舞台より
 

☆著・市川猿之助「スーパー歌舞伎 ものづくりノート」集英社新書
 

「歌舞伎へのいざない」(3/2-11)
半蔵門にある国立劇場で、この日は19時開演。
いつもは通常公演のうち月2回ほどの歌舞伎鑑賞教室ですが、今月は全公演がこの趣向で行われています。
そしてこの後は、国立劇場おきなわ大劇場(3/14-17)、石垣市民会館大ホール(3/30-21)で公演が行われます。

さて、第1部は「ようこそ歌舞伎へ」と題して、初めて歌舞伎を観る方にとっても舞台の興味を引くようなあの手この手で舞台を見せてくれます。
解説は澤村宗之助
歌舞伎が約400年前に‘出雲阿国’という男装した女性によって始められたことをパネルを用いて話していると、突然、雷鳴が轟き場内が真っ暗に。
明かりがつくと、そこには絵の中から抜け出た阿国の姿がありました。
ここで宗之助が阿国に、男の役者の演じる歌舞伎というものを説明して見せてくれるというわけです。
私たちは廻り舞台のこと、お囃子について、女方の歩き方などについて知ることになります。
かつらをつけて準備が整ったところで、中村京紫が「鷺娘」を踊って見せてくれました。
これから上演される作品についての前振りもたっぷりとあり、観客の興味は舞台に釘付けです。

上演される作品は「芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」四段目の「葛の葉」。
安倍保名を慕う狐が化けた女房の葛の葉と、本当の葛の葉姫を中村芝雀が早変わりの二役で見せてくれます。
クライマックスは、舞台の上で子供をあやしながら、保名へ想いを和歌に託して別れの言葉を障子に書置きする場面です。
悲しみをこらえ、懸命に書き残す女房葛の葉の姿を、胸が締め付けられる想いで見ていました。
その書の書き方が見所です。

4月から大学生という保名を演じる中村種太郎(プログラムより)の、女房の葛の葉が狐であると知ってからもなお愛情深く彼女の名を呼び続ける様に、保名の誠実な人物像が表れているようでした。

さて、その時の子供はどうなったのかご存知でしょうか。
後に安倍晴明となるのだそうです。不思議な力の秘密はその出生にありました。

歌舞伎は知るほどに面白くなります。

次回の鑑賞教室は6月7月に行われます。

※公演の詳細は、国立劇場のサイトで。

(国立劇場にて)
『ワニの涙』プレビュー
「現実に起きたのか起こらなかったのか判らない殺人事件」を通して、現在東京に生きる人々の心の闇、痛みを描く<神なき国の夜>シリーズ3部作の最終章が、この『ワニの涙』です。
いつの時代か、どこなのか。その物語は、ある不法のラジオ放送局が舞台となります。
盲目のDJが深夜の闇の中で語るその番組に、毎晩寄せられる電話。
その内容は、自殺、風俗、犯罪など言いたい放題ですが、どこか真実味がありません。
放送を操るはずのDJが、実はリスナーに翻弄されているのでしょうか?
突然の侵入者。そして彼の行く末は・・・。
盲目のDJ・市を演じる手塚とおるが、役をよく噛み砕いて丁寧に演じています。

さて、観客としては、2005年2月の『クリオネ』、2006年2月の『フクロウの賭け』と、3年越しで作品と向き合ってきたのですから、最終章の作品を観てようやくその全貌を知ることができると意気込んでいました。
きっと作者にもそんな意気込みがあったのだと思います。
しかし、私にはこれで完結したのだろうかという疑問が残りました。

最終章ということで、前の2作との関連を模索した作り手の意図は見えました。
が、それは前作を観た観客へのサービスとして映り、結局はこの作品の登場人物が、蘇った登場人物との関わりに苦悩することになったように思います。
その苦悩が意図したものであるなら・・・、それでも作品に一貫したカラーが見られませんでした。
奇をてらい過ぎたのでしょうか?
改めて文字でその物語を追ってみたい、戯曲で読んでみたい衝動にかられます。

そうは言っても、この舞台の幕開きは、現実か架空か、その何かが起こりそうな気配に目を見張るものがありました。
できることなら別の形で最終章を期待したい想いが募ります。
これも第1弾からその行方を見守ってきたから言うことです。
「心の闇、痛み」の形は時代とともに移り変わるものだと思うので、じっくりと時間をかけて様々なエピソードを見せてもいいのではないでしょうか。
それは演劇が、人々が世の中と向き合うためにできることなのだと信じています。

この『ワニの涙』は、もちろん前作を観ていなくても成り立つものです。
この作品では、若者たちの生きることにもがく姿に、大人になった私たちのどうすることもできない切なさを感じました。

作・演出・川村毅、美術・島次郎、照明・小笠原純、音響・原島正治、衣裳・伊藤かよみ

※公演詳細は、ティーファクトリーのサイトで。 3/6-16まで上演

(シアタートラムにて)

☆戯曲「ワニの涙」は、小学館『せりふの時代』4月発売の春号に掲載されるそうです。(劇場配布の資料より)