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kangekinocafe

Author:kangekinocafe
観劇の記録と紹介です。

えびす組劇場見聞録メンバーです。
しばらくblogはお休みしていましたが、【演劇、観劇のカフェ】blogからこちらに引っ越して来ました。
どうぞよろしく。

観劇のカフェ
出会った作品について語ります。関連書籍や音楽も、できる限りご紹介します。
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花形歌舞伎・夜の部
新橋演舞場での花形歌舞伎、夜の部です。
演目は『時今桔梗旗揚』『船弁慶』『義経千本桜』。

『時今桔梗旗揚』は江戸時代に書かれた作品です。
武智光秀(松緑)を家臣の面前で、いじめにいじめる小田春永(海老蔵)。彼らは史実では明智光秀と織田信長ですが、江戸時代には実名で上演することがはばかられ、このような役名となったそうです。
そしてイヤホンガイドの解説によると、この作品の光秀の立場は、こんなに屈辱を受けたのだから謀反を企てるのは無理もないという江戸時代の人々の光秀に対する見解なのだそうです。
松緑の堪える芝居が、一層、光秀の悲哀を浮き彫りにしていました。

『船弁慶』、静御前と平知盛の霊を菊之助が演じています。
義経の都落ちに同行を許されず哀しみを胸に踊る静の舞、そして船出した義経一行を呪い海に鎮めようとする知盛の舞。
特に知盛の舞は寄せては返す波のごとく義経に襲いかかり、次第にその激しさを増していきます。
足音を立てずに荒々しく舞う様が、亡霊を象徴する見事なものでした。
終盤の幕外、知盛の霊の引っ込みへの割れんばかりの拍手は、この作品が菊之助の代表作になることを予感させるものでした。

そして『義経千本桜』は、筋書きによると音羽屋型と澤瀉屋型があるそうで、今回は澤瀉屋型での上演となりました。海老蔵が指導を受けた猿之助の澤瀉屋型の’技’を披露する作品です。
まず神出鬼没の狐です。登場も裏方さんの協力無しではあり得ません。
花道の幕がシャリンと鳴って「出だよ!」の声。しかし登場は意外な場所から。こういう演出が粋でしたね。
しかしこの作品の見せ場は、それだけに止まりません。
忠信本人から源九郎狐の化けた忠信への早変わり、化けた源九郎狐の話す’狐言葉’(?)、いえ、そこで語られる身の上話。
義経(段治郎)が静御前(笑三郎)に渡した鼓のその皮は、実は源九郎狐の両親のものだというのです。成人しても孝行する親が無く、その鼓を親と思って頬ずりする源九郎狐の姿は涙を誘います。

さて、最大の見せ場は、源九郎狐が義経と静御前から鼓を譲り受け故郷に帰るところ。
扮する海老蔵の宙乗りです。狐らしい可愛い仕草で嬉しそうに鼓を持ち、空を駆け巡る姿。見えなくなるまで見送りました。

昼夜華やかな「花形歌舞伎」、この25日で千穐楽となりました。

(新橋演舞場にて)
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LIVE ACT『BLUE DREAM』(11/22-26)
音楽と映像を駆使して・・・
一体何が始まるのだろうと、息をのんで観客が見守る中、スクリーンが降りてきました。
映像の中のACT。一人の男。日常。夢。そして夢に導かれるように旅立つその先は・・・ここからLIVEの始まりです。

LIVE ACTとは?
客席にはそんな緊張感がありました。
舞台の上の歌い手は、客席の空気を感じようとしているように見えます。

その歌い手とは、中川晃教。

彼の歌に耳を澄ませると、LIVE ACT、その答えが見えてきました。
歌われる一曲一曲がオムニバスの物語のように聞こえてきます。
歌に込められた想いがACT。
LIVEで発せられた歌声が、真っ白い衣裳の上に聴衆のイメージする世界を作り上げます。

ミュージカルの舞台にも立つ中川ですが、自身の楽曲で、詞で、これだけ情緒ある独立した世界を作ることができるのだから、この世界だけで充分じゃないかという気がしてきました。

しかし秀でた歌唱力と表現力を、世間は、世界は放っておかないようです。
終演後の挨拶で、本人の決意と予定が語られました。
ミュージカルを一本、そしてマイケル・ナイマン作曲の主題歌&ストレートプレイが一本。
LIVE ACT『BLUE DREAM』は、さらなる飛躍に向けて彼の踏み出した初めの一歩なのかもしれません。

演出・音楽・出演・中川晃教

(世田谷パブリックシアターにて)
『トーチソングトリロジー』(11/20-12/7)
"トーチソング"とは、「感傷的な失恋の歌」のことだそうです。(プログラムより)
しかし、ここには失恋なんてカケラもありません。
むしろ愛に包まれています。

シルバーの目映いドレスに身を包み、ピアノの調べとともにアーノルド(篠井英介)が優雅に登場。
独り言のように観客に語りかけます。若さと美しさへの嘆きをユーモアたっぷりに。
彼にとって、今はまだ愛は充分ではないと感じているようです。
彼の優しい口調、そのユーモアのセンスに、思えばこの瞬間から私は虜になってしまいました。
そして私たちは彼の私生活に首をつっこむことになるのです・・・。

アーノルドは、私たちの中に存在する良心、優しさそのもの。
だから彼を心から愛するエド(橋本さとし)、アラン(長谷川博己)、デイビッド(黒田勇樹)、そして彼のお母さん(木内みどり)までも、愛情を持ってその関係を見守ることができました
彼らは皆、自身のコンプレックスを知り、それに向き合っていることから生じる強さと優しさの持ち主です。
筋を述べるよりも、俳優たちが、どんなに愛に溢れた幸せな息吹を彼らに与えたかについて述べたいと思います。

篠井英介の描くアーノルドのサラリとしたしつこさは、エド同様、誰にも突き放すことはできないでしょう。愛をプライドを持って与える人物の描写がいいです。ずっとずっとアーノルドの話を聴いていたいと思いました。

長谷川博己の、愛を求めて嗅ぎまわる子犬のような少年。時には若者の好奇心が覗く鋭い眼差しで私たちをドキリとさせますが、心底アーノルドの存在そのものを乞う姿に誰もが愛情を注ぎたくなってしまうことでしょう。
モデルの役?どんな役でも果敢に挑み俳優でいてモデルの仕事もこなす彼が、その存在もリアリティのある人物を作り上げました。

自分の気持ちを模索し、結局はアーノルドの生涯の友(以上の存在)になりそうなエドの恋心が、橋本さとしの体いっぱいに表されています。
情けなくても許せる人柄(役柄?)が、この作品には必要不可欠な存在となりました。

我が子を尊重し愛を注いではいるけれど、ゲイを息子に持つ母親の嘆きにもたっぷりと愛が感じられる木内みどり。納得しました、彼女がアーノルドの母親であり、アーノルドの優しさの源であることも。

そして、アーノルドの養子というこの作品を締めくくるのに重要な人物を、黒田勇樹が爽快に描きました。

しかしここでは、彼らの誰かを女性が占有しようとすることは叶わないのでしょうか。エドの妻ローレル(奥貫薫)は、ついにアーノルドをライバル視してしまいます。
こうなると女の醜さは目に見えるのだ・・・とゾッとしました。気をつけましょう。

舞台美術が、彼らの「愛」の形を絶妙に表しています。点が線に、そして面へと発展するように登場人物の関係を捉えた舞台の情景が、美しく記憶に停どまります。
彼らの描く「愛」に目頭が熱く、熱く・・・終盤、アーノルドがアランとエドの愛し方について語ります。アランはアーノルドの欠点を愛し、エドはそれ以外の部分を愛してくれるのだと。愛し方、愛され方の形は様々。今は誰かを気にかけたいという気持ちを抱きつつ、また彼らの優しさに会いに劇場へ行きたいと思います。

劇作家であり、俳優であるこの作品の作者=ハーヴェイ・ファイアステイン。
彼は舞台と映画で、自らアーノルド役を務めたそうです。アーノルドが愛して止まない人物であることは間違いありませんね。

作・ハーヴェイ・ファイアステイン、上演台本・演出・鈴木勝彦、オリジナル翻訳・青井陽治、美術・ニール・パテル

※プログラムの表紙にある写真の指の形は、手話で愛を示すのだそうです。

(パルコ劇場にて)

☆「トーチソング・トリロジー」DVD 作者であるハーヴェイ・ファイアステインが出演しています。

ミュージカル『マリー・アントワネット』(11/1-12/25)2nd
王妃マリー・アントワネットと同じM.Aのイニシャルを持つ貧しい少女マルグリット・アルノー。この役は新妻聖子と笹本玲奈のWキャストで上演されています。
二人のキャストを観て、作品と演出の意図を彼女たちなりの表現で忠実に伝えていると思いました。

この作品を二度観たことになるのですが、初回は楽曲と歌唱の美しさに心を奪われていたと認めざるを得ません。
冷静に耳を澄ますと、かなり詳しく登場人物の過去や置かれている状況を詞の内容が伝えていることに気付き、改めて聴き入りました。

ボロを纏った貧しい少女は、野良犬のように地面を這いつくばって生きながらも、既に誰が世の中を変える力を持つかを知っていました。
そこでマルグリットが歌う「100万のキャンドル」は何度観ても、聴いても溢れる涙を抑えることはできませんでした。
そこから信念を持って自身の信じる正義のために闘おうとする少女は、愛され、見守られ、多くの人々の賛同と、それを利用しようとする人々に翻弄されながら、自身の足でしっかりと混乱の世を生きていきます。正しいと信じる道を探し求めて。
王妃、フェルセン、マルグリット、オルレアン公らが歌う「もしも」のナンバー。彼らそれぞれが望む今の自分とは異なる立場や権力。人生のパズルは永遠に完成することなく、崩れて行くのを感じました。

18世紀のパリが私たちに訴えています。
世の現実を正面から捉え、その動向から目をそらさない者だけが、時代を操る側に立つということ。
そして操られるのはどんな人々か。
信念を持って何のために闘うかを知る者は、暴力で世の中を変えようとはしないということ。

観れば観るほど、フランスの、革命の時代に生きる人それぞれの視点で描かれた人生が見えてきます。
いつしか拳を握り締めて、どうにもならない彼らの行方を見守る自分がいました。

この作品、日本のキャスト、スタッフこのままで、是非、世界へ旅立って欲しいと思います。

原作・遠藤周作、脚本・歌詞・ミヒャエル・クンツェ、音楽・シルヴェスター・リーヴァイ、演出・栗山民也、美術・島次郎、照明・勝柴次朗、衣裳・有村淳

(帝国劇場にて)
※劇場にある空席状況のご案内チラシに、M.Aトリビアというコーナーがあります。
Vol.5 フェルセンは実は○○○だった!興味深い項目ですね・・・これが楽しみに劇場へ通ってしまいそうです。

2007年福岡、大阪公演の後、4月、5月に再び帝劇に作品が帰ってきます。
詳細は東宝のサイトで。

☆遠藤周作・原作『王妃マリー・アントワネット』新潮社
王妃マリー・アントワネット(上巻)  王妃マリー・アントワネット(下巻)
『シラノ・ド・ベルジュラック』(11/11-19)
見ごたえのある文学作品を観た、というのが正直な感想です。

江守徹が23年ぶりにシラノとして舞台に立つ、という情報以外知らずに劇場へ赴きました。
中世の劇場を彷彿させるように縁取られた舞台の装飾。
開演するとすぐに大勢の血気盛んな市民、兵士たちが、一斉に舞台上にワイワイガヤガヤ登場してきます。そこへ何か物言いたげな瞳をした青年が仲間と通りかかったのを見て、「あ、クリスチャンだ」と思いました。(クリスチャン・浅野雅博)
そして客席後方から挑発的に、それでいて詩を読むように朗々とセリフを語り闊歩してくる人物の登場。それがシラノ(江守徹)です。
クリスチャンを、その外見から従兄弟のシラノのように知的な人物だと信じ込もうとする、実は勇ましいロクサアヌ(高橋礼恵)。
文字どおり、役者が揃った舞台です。

鵜山仁の演出は、人物の感情が彼らを動かしているように見えました。
セリフに動きが、そして情景がついてくる。すると詩的なシラノのセリフもサァーッと観客の心に入ってきます。
江守徹の言葉に対する表情、言葉から生じる喜怒哀楽、彼の名優たる表現を堪能できる舞台でした。

過去を振り返ると、文学座では1951年にシラノを三津田健で初めて全編通して上演したそうです。(チラシの情報より)
そして1983年に藤原新平演出、江守徹のシラノで上演。
余談ですが1994年にアトリエ公演で、別役実の作、藤原新平の演出で『鼻』を観ました。年老いて幻想の中で生きる俳優を三津田健が演じていました。過去にシラノ役でつけ鼻を忘れて舞台に出たことを生涯悔いて、ロクサアヌの幻の声(杉村春子)を頼りに生きている一人の役者の晩年の話です。
これら上演の歴史から、文学座の『シラノ・ド・ベルジュラック』への想いに感慨を覚えました。
11/1に兵庫県立芸術文化センター中ホールを皮切りに始まったこの公演、11/19に千秋楽を迎えました。

作・エドモン・ロスタン、訳・辰野 隆、鈴木信太郎、演出・鵜山 仁

(シアター1010にて)

☆作・エドモン・ロスタン、訳・辰野 隆「シラノ・ド・ベルジュラック改版」岩波書店
『RENT』(11/16-25)
tick, tick... BOOM!』でジョナサン・ラーソンが音楽に、そしN.Y.にこだわり続ける生き方を知りました。
その彼が命をかけて世に送り出した作品、それが『RENT』。
舞台のオリジナルキャストによる映画も、もちろんよかったけれど、ジョナサンが舞台の上で何を伝えたかったかに触れるためには、やはり劇場で自分の目で観て感じて欲しいと思います。

私自身、映画を観てから初日の舞台を観たのですが、映画とはもっと違うことをこの作品から感じました。

プログラムを読むと、ジョナサンはこの作品のマークやロジャーのように、家賃の支払いに困るほどのアパート暮らしをしていたようです。
ミュージカルで成功することを夢見ながら。
この舞台の上には、ホームレスも、ドラッグの売人も、それを欲しさに体を提供しようとする少女も、互いを思いやる男同士のカップルも、AIDSの発病を恐れながら愛を語るカップルも・・・同時に同じ場所に存在しています。
そして彼らがそれぞれの想いを歌い上げる様は、「舞台ならでは」の臨場感と「今」を感じるリアリティがありました。

『tick, tick... BOOM!』で、ジョナサンがこだわり続けたN.Y.での生活。
そこでは彼の部屋が舞台となっていましたが、そこから足を踏み出した外の世界がこの『RENT』。
夢をあきらめたら、すぐに堕ちてしまう場所。
友との出会いとその関係が彼らの生きる源であり、ジョナサンのメッセージの一つに感じられます。

ジョナサンの作品には家族の温もりがあります。
『tick, tick... BOOM!』でもそうであったように、都会で暮らす我が子に、彼らの母親は始終電話をかけてきます。そして留守電に彼らを気遣うメッセージを残すのです。
互いを思いやっている『RENT』の登場人物たち。ここで出会う彼らは心を開く相手に巡り合った瞬間から「生きていこう」とする意欲が感じられました。

短い時間にジョナサンは強い想いをこの作品に込めました。
10年前の1996年、やっと日の目をみるという『RENT』初日の前日に、彼はこの世を去りました。
時を超え、国を超え、彼の作品は多くの人々へのメッセージを持っています。
それを受け取るのは、劇場で。

JAPAN TOUR 2006のキャストも魅力的です。
ミミ(Arianda Fernandez)の声には、役柄を象徴するようなはじけるかわいさがあり、コリンズ(Scottie McLaughlin)は、このカンパニーの要とも言える迫力を備えています。エンジェル(Joel Bermudez)のパフォーマンスを存分に楽しんでください。

作詞・作曲・脚本・ジョナサン・ラーソン
(東京厚生年金会館にて)

この後、名古屋、大阪で上演されます。詳細はこちら

☆『RENT』DVD


☆この映画のサウンドトラックCD


☆ジャパニーズ・キャストCD
レント オリジナル・ジャパニーズ・キャスト・レコーディング

☆「RENT」カラオケ(輸入2枚組CD)

11月に観たい―LIVE ACT『BLUE DREAM』
◎11月22日-26日、LIVE ACT『BLUE DREAM』
作・敷島 蒼、音楽・演出・出演・中川晃教、映像・美術・酒井 智

昨年の今頃、えびす組劇場見聞録21号に載せる原稿を書いていました。
一年を振り返り衝撃を受けたのが、ミュージカル『モーツァルト!』のタイトルロールに井上芳雄と並んでキャスティングされた中川晃教の秀でた歌唱力、そして役そのものとして舞台の上に存在している彼の芝居心でした。
その評価は2002年の初演時に、第57回文化庁芸術祭賞演劇部門新人賞、第10回読売演劇大賞優秀男優賞、杉村春子賞などが彼に贈られたことでも示されています。

中川晃教の伸びやかで感情豊かな歌声は、人々の心を虜にします。
デビューから5年目の今年、彼は自身の演出で、自作の楽曲と新曲を引っ提げ、世田谷パブリックシアターという演劇の聖地・劇場という場で、LIVE ACT『BLUE DREAM』を披露します。
11月に24歳のバースデーを迎えたばかりの中川晃教にとって、自ら演出を手がけた舞台に立ち、観客に歌声だけではない自身の成長のほどを披露する作品でもあるようです。

魂のある歌声に彼の想いをのせたLIVE ACT『BLUE DREAM』
エジプトをテーマに、過去、現在、そして未来を旅する一人の男の物語。
興味深いのは、世田谷パブリックシアターの技術チームとタッグを組んで、映像と音楽を駆使したステージを作り上げたということです。
ミュージカルでもない、彼本来のシンガーソング・ライターという枠に囚われるわけでもないLIVE ACTという舞台。

蜷川演出のストレートプレイ『エレンディラ』に主演が決まっている彼のACT(芝居)の表現に、得意の歌とともに大いに興味があります。

(世田谷パブリックシアターにて)

その他、名古屋と新神戸で公演があります。
詳細はこちら

花形歌舞伎・昼の部(11/1-25)
今月は新橋演舞場でも歌舞伎の公演があります。
「花形歌舞伎」
筋書きによると、’その時代の花形俳優が、諸先輩の厳しい指導を受けて大役に挑み・・・’これが歌舞伎の芸の継承という役割の一端を担うことにもなっているとのこと。
若手が中心となって、昼の部は『番町皿屋敷』『勧進帳』『弁天娘女男白浪』が上演されています。
今回中心となるのは、以前「三之助」の呼び声のあった松緑、海老蔵、菊之助。
そこに憂いのある女形の芝雀、渋みのある存在感が魅力の左團次が加わり、華やかな舞台となりました。

特に『勧進帳』での海老蔵のにらみをきかせた弁慶は、若いながらこうやって迫力の見せ場とするのか、観ていて悦に入りました。
『弁天娘女男白浪』の娘お浪・実は弁天小僧菊之助(菊之助)と若党四十八・実は南郷力丸(松緑)の息の合った掛け合いは、観ていて気持ちがよかった。
見所と言えば、菊之助が家柄の良い娘の扮装で現れ、正体を見破られたところで男性の姿を見せる、この瞬間でしょうか。
菊之助の優美な女形を楽しみに観ていた観客としては、役者の新鮮な一面を見せられたように思いました。
それに松緑の目つき、声色の芸の細かさを堪能しました。

若手が大きな役を披露する「花形歌舞伎」。
夜の部では、昨年12月(歌舞伎座)に玉三郎で観た『船弁慶』の静御前と平知盛の霊を菊之助が演じ、『義経千本桜』では海老蔵が宙乗りを披露するとか。
猿之助一門の役者の登場にも、舞台への関心が募ります。

(新橋演舞場にて)
『チェックポイント黒点島』(11/4-12/3)
・波の音、そして地響き。
岩の島が海中から姿を現しました。そこに太陽の黒点を観測する一組の夫婦が上陸し、小屋を建てました。

・家の近所の通り道。道の脇に小さな小屋が建ち、警備の帽子を被った人物が通行人に話しかけます。そして通行人は恐る恐る尋ねるのです。「これは検問ですか?」

・あるマンガ家が、仕事部屋として小さな小屋を建てました。彼女がかつて描いたマンガの題材にちなんで。その小屋の姿は、いつか雑誌かテレビで目にした「チェックポイント・チャーリー」の再現。

配布されたプログラムによると、「チェックポイント・チャーリー」とは、かつて機能していたベルリンの壁の西側ゲートに位置した検問所だということです。
舞台の上に常にその姿をさらしている検問所「チェックポイント・チャーリー」。
その存在は、世の中の時事問題をよそに、自らがその存在の意味を問うかのようにただ黙って佇んでいます。

なんのために存在するのか?
時としてその存在が、なぜ争いを引き起こすのか?

検問所という言葉が導く緊張感。
時代と場所が変われば、それを象徴として笑い飛ばすことも可能だというのに。

舞台の上では、怒涛のように事件が、時には夫婦の、家族の間の問題が繰り広げられていきます。
観ている者の心がえぐられるように重く辛い事件もここにはあります。
中には物語の進行上ヒヤッとする話題も出てきますが、登場人物たちがそれらに立ち向かっていく姿を私たちは黙って見守ります。

どんな状況にあっても、前を向いて生きている女性、ヒロコ。
「チェックポイント・チャーリー」を語り、ヒロコという一つの名前でつながる3人の女性の存在が、この物語を支えています。
そして3人のヒロコたちを一人で演じる竹下景子の真っ直ぐな視線、見えない力強さと包容力が、そこで起こることから目をそらさないよう最後まで私たちを導いてくれるようでした。

そして、自分の親と重ね合わせながら観た、母の想いを語る渡辺美佐子の存在感。

2時間あまりノンストップのこの作品は、時間以上に多くの感情、情報を私たちに提示します。
観ている間、自分自身は考える余裕はなく、ただ受け止めるしかありませんでした。
全ての情報を得た後、私にはこの作品自体が、世の出来事と私たちの間に存在する検問所のような気がしてきました。問題と正面から向き合う私たちが出会う場所として。

作・演出・坂手洋二、美術・二村周作、照明・竹林 功、音響・島 猛、衣裳・大野典子

(下北沢ザ・スズナリにて)

※ザ・スズナリ開場25周年記念公演として当地で上演された後は、各地で公演が行われます。詳細は燐光群のサイトで。

※チラシ画像について、燐光群に掲載の許可をいただいております。無断で転載はなさらないでください。

『子供が舗道で死んでいる。』(11/1-8)
銀座みゆき館劇場で上演されている、ギィ・フォワシィの作品。
今回はギィ・フォワシィ・シアター30周年記念公演 No.2です。
私には耳慣れない作家の名前でしたが、えびす組のみんなからは、「懐かしい、以前に観ました」という返事が!
今回私はギィ・フォワシィ デビューで臨みます。

と、いうことで外堀通りに面した(ものすごい立地条件)ビル地下1階にある劇場へと向かいました。
100席あまりの、小さいけれど舞台が見やすい劇場です。
今回は『方向転換』(訳・佐藤康、演出・沢田次郎)と二本立て。それぞれ出演する俳優も2、3人という舞台のサイズに合った作品でした。

一本目、タイトルの通り、子供が舗道で死んでいることが、登場する老婦人(Bキャストは斎藤直樹と沖田乱)の話題となります。
最初、彼女たちは、子供が死んだフリをしているから騙されてはいけないと言って警戒しています。
・・・死んでいるのがわかると、↓
昔は隠れてひっそりと死んだもの、今ではテレビを見ても死体だらけ
・・・と、開き直り。もし、あの死体が自分たちだったらと考えると↓
きっと若者は自分たちの死体を笑うだろう。だったらここで先に笑ってやろう
・・・我に返り、死体が気になってしょうがない自分たちに↓
こんなに振り回されて、気になるのが嫌でしょうがない。無視して無関心を装うのが一番
と、遺体をショールで隠し、なかったことにしようとする二人。

なんとも奇抜な設定ですが、配布された資料によると、この作品がはじめてラジオ・ドラマで上演されたのが1972年。
30年以上も前に書かれた作品だと聞いて、驚きました。
なぜなら、全然内容が古くない。(もしかすると台本・演出・木内宏昌の功績もあり?)
人間の醜い「臭いものにフタ」の無関心を装う部分を、二人の老婦人の葛藤を通して私たちは知ることになります。受け取りようによっては、世界規模の話にも。
'無関心という罪悪'
ニュースで他国の悲惨な状況が伝えられても、自分が身を乗り出して知ろうとしなければ、それに対して何もしないのと同じこと。
これを知らしめるのに、戦争も、テロも、核兵器の話題もいりません。
この老婦人の会話、心理が、私たちが自分の身にふりかからないように無関心でいよう、ないことにしてしまおう、という態度への警告なのかもしれません。

上演時間45分の二人芝居。シンプルな状況設定だからこそ、滑稽な老婦人の態度に、作品の意志が見えてきたような気がします。
女性の俳優のパターンもあったそうですが、老女を男性が演じているところが、逆に何をやっても彼女たちの会話が真面目に受け取れてしまう面白い演出でありました。

(銀座みゆき館劇場にて)


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